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このページでは舟宿にまつわるいろんなお話、屋形舟の歴史をご紹介しております。
不定期ではございますが少しづつ更新して参りますので、お楽しみください。ぜひご意見・ご感想などお寄せください。

一言お礼を

撮影中の小松屋火曜サスペンス「屋形船の女」の撮影をしていた頃のお話です。
シリーズも2話目の撮影に入り、スタッフの人達とも懇意になり、雑談などしながらお昼を食べているときに、プロデューサーの方が、次回は戦争を題材にした話を考えていると言いました。

戦争に関わる話と聞いて、私には26年前のある夜の事が思い出されました。

「私にも戦争の体験の話があるんですけど聞いてくれます」と言ったら、プロデューサーの方が(戦後生まれの私の戦争体験???)と不思議そうな顔をしながら、身を乗り出す様にして聞いていてくれました。

屋形船がお客様を乗せて隅田川や東京港を上り下りするには、運輸局の航路事業者の許可が必要となります。

許可をいただいた後、許可事業者の団体『関東旅客船協会』に加盟しました。
私の体験とは、協会への加盟と関東旅客船協会の名称があったからの話なのです。

昭和50年5月、伊豆稲取温泉で関東旅客船協会の年次総会が開かれました。
協会加入後始めて参加する総会ですが、体の状態が芳しくなかった父に代わり、当時20代半ばの私が出席しました。まわりは父と同年代かそれより年上の方々ばかりでしたので、多少緊張もありました。

総会も定時に終わり、夕餉の懇親会へとうつります。
挨拶も終わり、芸者さんが10人程入り宴会の始まりです。余興や歓談で座は賑やかになり、隣の話も聞き取れなくなるほどザワザワしていました。

40〜50分過ぎた頃でしょうか 「こちらが、柳橋の若旦那だよ。話してみると良いよ」
と言って、東京港で遊覧船を行っている会社の方が、一人の年配のお姐さんをつれて私の前に座りました。

「東京の、あの隅田川の側の柳橋からいらしたんですか?」
「はい、そうです。」
「柳橋のそばにあった舟宿さんの小松屋さんですか」
「ええ、そうです。今もやってますよ。」
「おかあさん、…いえ、おばあちゃんかしら、元気かしら」
「元気ですよ。今はもう舟宿には出てないですけど。」

こちらに親戚や知り合いがいるとは聞いたことがなかったので、私も一瞬怪訝な顔になったようです。
嬉しそうに微笑んだ後、お姐さんは話し出しました。

今日のお座敷に呼ばれ、挨拶を終え顔を上げると、歓迎の看板に「関東旅客船協会」の名が。船の関係の仕事の集まりだと思ったときに、若い頃よりずうっと気に掛かっていたことが、すうっと思い出されたそうです。

お酌をしながら、皆さん船に乗る仕事ですか、どちらからいらしたんですか、東京の方はいらっしゃるんですかと尋ね、隅田川の近くの人がいるよと聞かされ、私の前に座ったそうです。

昭和20年…当時浅草の近辺に住んでいたお姐さんは、3月の東京大空襲で焼け出されてしまい、帰るあてもなく小さな妹と歩き回っていたそうです。

1〜2日が過ぎた頃、隅田川沿いに下って柳橋にでて、妹の手を引き、川を眺めると神田川に張りでた桟橋で、おばあさんが洗い物をしているのが見えました。

ふらふらと歩いていき、二人で眺めていると、気が付いたおばあさんが「どうしたの」と声をかけてくれました。

焼け出されて妹と二人だけの事情を話すと、桟橋から上がり「こっちにきなさい。」と言って食べ物と水を渡してくれたそうです。

その後の事は詳しく話されませんでしたが、親戚を頼りにこちらに住んだそうです。
話の途中ふと周りを見ると、他のお姐さんが3人、会の方が4〜5人ぐるりと周りを取り囲む様にして話を聞き入っていました。

戦火の二人各々に、戦争当時を振り返り感ずるものがある様な面持ちでした。
話を終えるとお姐さんは、深々と畳に頭をさげ、「あの節は大変お世話になりました。おばあさまに、ありがとう御座いましたとくれぐれもお伝え下さい」と言い上げた顔は、化粧も流れるほどの涙顔でした。

とっさのことに、私は返す言葉もありませんでした。

「自分もまだ若く、小さな妹と二人きりでしたので、いつかお礼に行かなければとずっと思いながら、今日までたってしまいました。でも、あの時貰った食べ物と水のおいしかったこと〔小松屋〕という小さな看板の名だけは忘れることがありませんでしたので、やっと少しは思いがとげられました。」

「ここで私に会えるとは」と、また深々と頭を下げられました。

私は思わず目頭が熱くなり、なかなか言葉が出てきません 「帰ったら、必ずおばあちゃんに伝えますから、近くに来ることがあったら、必ず寄って下さいね。」と答えるのが精一杯でした。

まわりの人達も「話が出来て良かったね。」としんみりしながらほんのりとした雰囲気でした。

帰って祖母に伝えましたら、すぐには思い出せないようでしたが、「ああ、当時は焼け出された人がいっぱいいたから。・・・そんなこともあったかも知れないね。でも元気でやっているなら、有難いことだね。」と戦争の頃を、思い返している様子でした。

…と、こんな話もあったんですよ、人の縁ってわからないものですねと話終えてプロデューサーの方を見ると、目に涙をためて無言でした。戦争中の生まれだと話してましたから、自分の幼い時代と重ね合わせたのかも知れません。

その祖母は、もういません。

キラキラと日差しが水面に照りかえる隅田川に、今日も変わらず屋形船は出て行きます。

船から川沿いに連なるビル群や橋の上の渋滞の車両、テラスを散策する親子連れや会社員の姿を見ますと、いつもと変わらぬ光景に見えます。

江戸のまたその昔から、川は幾多の時を経ても変わらずに流れていますが、その時々どの様な光景を水面に写してきたのかと、思いを巡らせてしまいます。

2008年8月15日

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